まみやりんぞうとかばしゅっこうのち
間宮林蔵渡樺出港の地碑
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間宮林蔵渡樺出港の地碑(上)/間宮海峡(下) |
間宮林蔵ってだれ?
間宮林蔵は江戸時代(1603〜1867年)の探検家で、蝦夷地(北海道)に長く住み、正しい地図の作製に力を注ぎました。また、間宮海峡を発見したということでも有名です。
出身地は常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県伊奈町上平柳)で、
1780年に農家の家に生まれました。幼いときからかしこかったという話がつたわっており、15、6歳の時には幕府の役人の村上島之允(むらかみしまのじょう)の目にとまり、その下で働くようになります。はじめて蝦夷地に渡ったのも村上と一緒でした。
樺太と間宮海峡
このころになると、となりの国であるロシアが日本に近づいてくることが多くなっていました。しかし、蝦夷地とその周辺のことはまだわからないことだらけです。樺太が半島か島なのかもわかっていません。それでは、日本の領土だと主張することもできません。そこで幕府は1808年に本格的に樺太の調査をすることを、松田伝十郎と間宮林蔵に命じました。
二人は東岸と西岸の二手にわかれて進むことにしました。もし途中で
出会うことができれば、樺太が島であることになるからです。しかし、東岸をまわっていた林蔵は途中から進むことができず、内陸をとおって伝十郎と合流します。このときには伝十郎はすでに樺太が島だと確信していました。
一度蝦夷地に戻った二人ですが、林蔵は再び樺太を目指します。そして北の端まで到達し、樺太が島であると証明しました。これが間宮海峡の発見です。そして、大陸にも渡って、シベリアや中国の様子を調査しています。蝦夷地に戻ったあとは、「東韃(とうだつ)地方紀行」や地図を作製しました。
伊能忠敬から測量法などをさらに学び、蝦夷地の測量は1822年まで続けられました。この成果は、すでに亡くなっていた忠敬が生前に進めていた日本全図にそのまま活かされています。そして、この地図をシーボルトという学者が紹介し、この海峡を「Mamiya
no Seto」(間宮の瀬戸=間宮海峡)と記したことで、日本の測量技術の正確さが認められ、世界地図に書かれたただひとりの日本人といわれるようになりました。
林蔵はその後スパイ的な仕事につきます。そのあいだにおきたシーボルト事件では、密告者という不名誉な呼び名で知られるようになってしまいましたが、事実とは異なるようです。
現在ではどうなってるの?
間宮林蔵が証明した間宮海峡は、現在でも地図を開くときちんと書かれています。上の地図でもわかる通りサハリンとユーラシア大陸のせまいすき間がそれです。かっこ書きで「タタール」と書いてあるのは、他の国では主にタタール海峡(Tatar
Strait)の名前を使っているためです。ただ、辞典などでは同時に間宮海峡(Mamiya Strait)も載っています。まさに世界に通用する日本の地名です。
そのはたらきをたたえるために、稚内市内には間宮林蔵に関するものが2つつくられています。
ひとつが「間宮林蔵像」で、生誕200年を記念して建てられました。その目はかつて渡った樺太に向けられています。
もうひとつが「間宮林蔵渡樺出港の地碑」です。実は、林蔵が樺太に渡るときに、どこから出発したかというのははっきりしていません。文献にも、ただ「宗谷」としてしか書かれていませんでした。しかし、死ぬことも覚悟していた林蔵が建てたという墓石が見つかったことや伝承などから、この碑の場所が出港した場所と考えられています。碑の横にあるのがその墓石だそうです。
間宮林蔵
【歴史】
1780 常陸国(現在の茨城県)で生まれる
1795 才能を認められ江戸へ出る
1799 村上島之允の従者として蝦夷地へ渡る
1800 伊能忠敬と函館で出会う
幕府の役人となる
1803 以後、蝦夷地、南千島の測量に従事
1808 幕府の命令で松田伝十郎と樺太探検(第1回)
単独でふたたび樺太探検に出発(第2回)
1809 樺太が島だと証明(間宮海峡の発見)(※)
1810 「東韃(とうだつ)地方紀行」などを書く
1828 シーボルト事件がおこる
1832
シーボルトが「Mamiya no Seto」を紹介
1844 江戸で死去
※間宮海峡を最初に発見したのは1808年の松田伝十郎ともいわれますが、2回目の調査で実際に通過して証明したことなどから、このような記載にしてあります。
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稚内市について
最北の市として知られており、利尻・礼文への観光基地、最近ではサハリンとの玄関口として注目されています。
【由来】冷たい水の出る沢を意味するアイヌ語「ヤム・ワッカ・ナイ」から
【人口】42,845人(2004年2月現在)
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