しせき おたるないうんじょうやあと
史蹟 オタルナイ運上屋跡
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史蹟 オタルナイ運上屋跡 |
運上屋(うんじょうや)って何?
江戸時代(1603〜1867年)、北海道はまだ蝦夷地(えぞち)と呼ばれていました。そして、当時そこに住んでいたアイヌの人々との取り引きを幕府から認められていたのが
松前藩です。藩から家臣への俸禄(ほうろく/給料のこと)は米で 払われるのが一般的でしたが、 北海道では米が作られていませんでした。その代わりとして家臣に決められた区域でアイヌの人と交易することを認め、その収入を給料とする制度をとりました。その家臣を知行主(ちぎょうぬし)といいます。
知行主は、そのうち取り引きを商人にまかせ、その代わりに利益の一部を運上金としてもらうようになります。決められた区域を「場所」、この商人を「場所請負人(うけおいにん)」と呼び、場所請負人が経営のために場所ごとに作ったのが「運上屋(家)」です。運上屋はその後、取り引きの拠点としてだけでなく、役人や通行人の宿泊所として使われたり、公文書を取り扱うなど松前藩の出先機関のような仕事もするようになりました。
オタルナイ運上屋
オタルナイとは小樽の昔の呼び名で、「砂の川の道」を意味するアイヌ語からつけられました。そのオタルナイには以前からアイヌの人が住んでいましたが、1700年前後には和人(本州から渡ってきた人)がこの地に入ってきているようです。そして、アイヌの人と交易をはじめ、オタルナイ運上屋が1716〜1735(享保年間)年ころには作られました。記録によれば、1786年に江戸幕府の役人がここに泊まったとのことです。
そのころには場所請負制がかなり盛んになり、運上屋も蝦夷地内に85か所も作られています。各場所ではより利益が高くなり、それにあわせて運上金が値上げされたりもしました。ただ、これによって働かされているアイヌの人の労働がさらに厳しくなり、半奴隷的な扱いになってしまいました。
そのオタルナイ運上屋も、1865年にオタルナイ場所が村並となり、場所請負制とともに運上屋も廃止になります。これはオタルナイ場所に和人が多く定住して発展してきたので、内地(ないち/本州のこと)の村と同じように扱うということです。ただ、それだけではなく、松前藩に代わって蝦夷地を直接管理するようになっていた幕府が、経済発展のためには場所請負制が邪魔だと感じていたこと、財政的に苦しかったために運上金ではなく直接よい多くの収入を得ようとしたということもありました。
廃止された運上屋は、以後は本陣とよばれ、幕府の事務を取り扱っていましたが、次の年の1866年には火事によって消失してしまいました。
なお、オタルナイ場所の知行主は松前藩重臣の氏家氏、請負人は近江商人の恵比寿屋岡田家だったそうです。
現在ではどうなってるの?
小樽は明治維新のあと、貿易港としてさらに発展し、現在では観光地としてにぎわっています。オタルナイ運上屋跡碑が立つ場所も、古い石造りの建物がたくさん並んでいるところで、オルゴール堂や北一ガラスなどの観光施設として道内外の観光客が訪れています。ただ、この石碑と案内板に目を向ける人はあまりいないようです。
小樽の歴史は村並になった時から数えて開基130年あまりとされていますが、それよりもかなり前から和人が活動していたこと、さらに前からアイヌの人が住んでいたことも忘れてはならないでしょう。また、縄文時代から人が住んでいた跡もあり、小樽は古い歴史をもつ土地だということに間違いありません。
重要な史跡もたくさんあり、古いもので手宮洞窟や忍路環状列石、近世以降では鰊御殿(ニシン漁場建築旧田中家邸宅)、小樽交通記念館(旧手宮鉄道施設)、旧日本郵船小樽支店といったものが代表的で、ぜひ見ておきたいところです。
オタルナイ運上屋
【歴史】17??(16〜35)〜1865
17?? オタルナイ運上屋設置
1786 江戸幕府役人が宿をとる
1865 場所請負制度、運上屋廃止
以後は本陣となる
1866 火災により建物消失
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小樽市について
かつては北海道経済の中心地として栄え、そのころの町並みは今でも残り、観光地として賑わっています。
【由来】砂の中の川を意味するアイヌ語「オタルナイ」から
【人口】149,073人(2002年7月現在)
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