大友亀太郎像 |
大友亀太郎ってだれ?
札幌の街は、きちんと計画を立てて町づくりが進められたので、碁盤の目のように道路と道路が直角に交わるように作られています。住所も南北に移動すると「条」が、東西では「丁目」が変わるというように、とても分かりやすくなっています。
この基準となっているのは東西に伸びる大通公園と、南北に通っている創成川ですが、この創成川の基を作った人が、大友亀太郎です。
大友亀太郎と創成川
大友は1834年に現在の神奈川県小田原市に生まれました。家は農家でしたが、小さいころから勉強が好きで、22歳の時には二宮尊徳(金次郎)に弟子入りをして、最新の農業と開拓のことなど、多くのことを学びました。そして、江戸幕府より、そのころから始められていたえぞ地(北海道)の開発の適任者として大友が抜擢され、えぞ地に渡ったのは1858年のことです。
大友がまずしたことは、道南の木古内、大野の開拓で、1866年に現在の札幌市東区に移り住んで、道路や橋、御手作場(模範農場)、さらに大友堀を作り始めました。この大友堀は東区の伏古川から中央区の鴨々川をつなぐ人工の水路で、御手作場への農業用水確保を目的として作られ、翌年の1867に完成しています。
最初はまたげる程の小さい水路だったそうですが、その後に幅が広げられ、運河としても
使われるようになりました。札幌に人が集まるにつれて、生活のための品物をひんぱんに運んでこなくてはいけなくなったためです。そして、この大友堀は札幌の発展に大きく役立ちました。
ただ、大友は、江戸幕府に代わって出来た新しい政府と仕事の進め方で意見が合わず、1870年に故郷の小田原に帰ってしまいました。その後は神奈川県議会議員となるなど、地元の発展にも活躍しました。
現在では
現在の創成川は、大友が作った大友堀とは流れが変わっています。南3条から北6条の部分が残っているだけです。しかも、道路よりも深い堀となっているので、あまり見る機会もありません。ただ、札幌の開発が創成川を基準に進められたことを証明するように、現在の住所も創成川を境に東○丁目、西○丁目、創成川と直角になるように作られた大通りを境に北○条、南○条となっています。街作りもそれに合わせて行われたので、雰囲気も全く違って、西側のにぎやかさと対照的に、東側は高い建物も少なく静かな雰囲気となっています。
さらに、 北6条以北の埋め立てられた部分も、碁盤の目の中の斜めの道路として、また、御手作場の跡には大友公園が整備され、大友亀太郎の役宅跡には札幌村郷土博物館が作られるなど、大友亀太郎と大友堀の歴史がしっかりと伝えられています。
そして大友亀太郎像は、自分が作った創成川沿いに建てられ、当時から変わったもの、変わらないものを静かに見つめています。
大友亀太郎
【歴史】
1834 現在の神奈川県小田原市に生まれる
1855 家業を弟に譲り、二宮尊徳の弟子になる
1858 幕府の役人になる
1859 北海道に渡り、木古内、大野を開発
1866 現在の札幌市東区に入り、開発を行う
1867 大友堀完成
1870 小田原に戻る
1881 神奈川県議会議員に当選
1897 67歳で死去
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札幌市について
【由来】アイヌ語の「サッ・ポロ」(乾いた広いところ)、または「サリ・ポロ・ペッ」(大きな湿地のあるところ)から
【人口】1,861,431人(2004年1月現在)
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