たきもとおうきねんひ
滝本翁紀年碑


滝本翁紀年碑

滝本翁ってだれ?
  滝本翁(「翁」はおじいさんの意味)は、滝本金蔵という名前で、登別温泉に深い関わりのある人です。では、「登別温泉」「滝本」とという二つの言葉から何か思い出すことはないでしょうか? そう、滝本金蔵は武蔵国本庄(現在の埼玉県本庄市)出身で、現在も登別温泉にあるホテル『第一滝本館』の基礎を作った人なのです。

滝本金蔵と登別温泉
 登別温泉が最初に紹介されたのは最上徳内の「蝦夷草子(えぞぞうし)」ですが、より人に知られるようになったのは、探検家で北海道の名付け親である松浦武四郎が訪問したことからで、今から150年以上前です。その時のことを「蝦夷日誌(えぞにっし)」という書物にも書いていますし、その10年ほど後には再度訪れるほど気に入ったようです。
 ただ、その当時はまだ設備はもちろん、道すらも満足についていませんでした。1857年から幌別場所請負人の岡田半兵衛が 温泉へ行くことができる新しい道と休憩する小屋を建て、温泉地としての設備が整え始めました

 滝本金蔵は、1858年に北海道に渡ってきました。当時、妻の佐多がひどい皮膚病にかかっていたため、登別温泉の噂を聞いた滝本金蔵が佐多をつれて温泉に入ったところ、佐多の皮膚病をすっかり治すことができました。これをきっかけに、滝本金蔵は登別温泉の良さをたくさんの人に広めるため、温泉の本格的な開発に取り組み始めます。温泉を利用しやすくするために新しい道路を作ったり、簡単な小屋だった宿を二階建ての立派なものにしたり、温泉地としての整備を進めていきました。
 温泉の発展に力を注いだ滝本金蔵は、1899年に74才で亡くなりましたが、温泉宿の 経営は息子の金之助とその妻の浜に引き継がれ、その翌年に『滝本館』と名付けられました。1903年にはもともとあった宿を買い取って『第二滝本館』として、元の「滝本館」を『第一滝本館』とするなど、さらに発展をしていきます。

現在では
 登別温泉は、その後も少しずつ開発されていきます。1915年には登別駅と登別温泉の間に馬車鉄道、その3年後には軽便鉄道が開通し、1932年にバスに切り替わるまで温泉客の足として活躍しました。また、宿泊施設も増え、すでにあったところも施設を増築するなど、発展を続けていきます。
  そして現在では、第一滝本館のほかに30軒の宿が建ち並び、年間300万人が各地から訪れる、全国でも有数の温泉地に成長しています。
 また、 滝本金蔵が作った温泉宿は、その後、経営者は変わりましたが、現在でも『第一滝本館』というそのままの名前で残っています。特に、その歴史、設備においては引けを取るものはなく、名実共に登別温泉を代表する宿として親しまれています。

滝本金蔵/登別温泉

場所】登別市登別温泉町
歴史
 1790 最上徳内の「蝦夷草子」に紹介される
 1845 松浦武四郎が初めて訪れる
 1857 岡田半兵衛が湯治のための小屋を建てる
 1858 滝本金蔵が登別に移住
 1899 滝本金蔵が72歳で亡くなる
     子とその妻が経営を行う
 1900 湯元滝本を増築し「 滝本館」と名付ける
 1903 第二滝本館設立、本館を第一滝本館と改称
 1913 登別温泉軌道会社が滝本館を経営
 1918 登別〜登別温泉に軽便鉄道が開通
 1925 軽便鉄道が電車になる
 1927 第一滝本館の経営が南外吉に移る

場所】登別市登別温泉町
泉質 硫黄泉、食塩泉、明ばん泉、重曹泉等
効能】神経痛、リウマチ、創傷等

滝本翁紀年碑について

いつでも見学できます
-
無料
他に記念碑が多数あり
登別市登別温泉町106(湯沢神社境内)

登別市について
 仙台藩白石城主の片倉家が基礎を作り、現在では登別温泉を中心とした観光都市に発展しています。

【由来】白く濁った川を意味するアイヌ語「ヌプルペツ」から
【人口】53,923人(2005年3月現在)

ちょっとより道

・登別伊達時代村 江戸時代の町並みが再現されたテーマパークです
 9:00〜17:00(冬期10:00〜16:00)冬期のみ水曜日3500/1800円登別市中登別

参考 登別市史
あたらしい北海道の歴史
関連 登別市
 

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