約2万年前の海岸線 |
北海道のはじまり
北海道が今の形に近くなってくるのは第四期と呼ばれる時代で、約40万年前のことです。それまでの約3000万年の地球の変動によって形作られてきました。
人類が生活していた跡で一番古いのは旧石器時代の物で、約2万年前。そのころ、陸地は現在とは違い、北海道は本州とも、サハリンを通って大陸とも地続きになっていたこともあり、マンモスゾウなどが渡ってきました。人類も同じようにして渡ってきたと考えられています。
約1万年前に大陸から分離して島になりました。縄文時代となって縄の模様のついた土器やいろいろな道具を使うようになります。九州には2300年ほど前に大陸から九州に伝わった鉄器と稲作はほとんど伝わらなかったようで、その後も続縄文文化と呼ばれる時代が1000年ほども続きます。7世紀ころになって、本州の文化の影響で擦文(さつもん)文化に移り、鉄器もつかうようになりました。
本州で鎌倉幕府が成立すると、その力は本州の北端にも及ぶようになり、北海道にも文化が持ち込まれるようになります。竪穴式だった住居が平地に作られ、陶磁器などが使われるといったことがその影響です。漁や狩猟、アワやヒエを作って生活し、毛皮を漆器、米、布などと交換するといった交易も行っていました。
歴史の中の北海道
書物の中にはじめて北海道が出てくるのは、日本最古の歴史書である「日本書紀」であるといわれています。ただ「北海道」という呼び名はまだありません。安倍比羅夫の蝦夷遠征の中に出てくる「渡島」が北海道をさしているそうです。しかし、そうではないという説もあり、実際にははっきりしていません。ただ、そこには本州にはいないヒグマのことが書かれているので、何らかの形で北海道と関係があったことは間違いありません。
はっきりしてるものでは、鎌倉幕府の時代に強盗や海賊などを、当時の北海道の呼び名である「蝦夷が島」に島流しにしたということが書かれています。1443年には、津軽の安東氏が南部氏との戦いに破れて、渡ったという記録もあります。そのころには、渡島半島に12の館(たて:城のような家)がつくられていました。館はそれぞれ家来にまかせていますが、そのうち今の上の国町にあった館の館主だったのが蛎崎氏です。
もともと北海道にいたアイヌの人に対して、後から来た本州などの人を「和人」と呼びますが、このように和人が多くなってくるにつれて、アイヌの人とのもめ事も多くなってきます。1456年、和人がアイヌの若者を殺したことをきっかけに、和人の横暴に対するアイヌの人の反乱、コシャマインの乱がおこりました。そして、この乱を終わらせたのが武田信広という人です。
武田信広はその働きが認められて蛎崎氏をつぐことになりました。その後、蛎崎氏は松前氏と姓をあらためます。これが松前藩となりました。
旧下ヨイチ運上家
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松前藩の時代
以後、蝦夷地の支配は松前藩が行うようになります。現在も残る松前(福山)城などはその時に建てられたものです。また、交易のために運上家などが作られたのもこのころです。
ただ、蝦夷地はロシアと近く、たびたび船でやってきたことから、当時外国との関係を断つ鎖国政策をとっていた江戸幕府はこれを危険に感じて、蝦夷地を直接管理して、各地に武士を常駐させます。現在の増毛などがその地に選ばれ、陣屋、勤番越年陣屋などがおかれましたが、かなり過酷な条件だったようで、多くの病死者がいたとのことです。
その後、ロシアの動きがおさまったため、松前藩に蝦夷地をいったん返しますが、また活発化してきたので、幕府は仙台藩や秋田藩などに分割して警備させることにしました。しかし、その体制は長くは続かず、10年も経たないうちに明治維新がおこり、蝦夷地は北海道として、新しい時代を迎えることになります。
北海道のむかし
2万年前ころ 北海道に人が渡ってくる
1万年前ころ
縄文時代がはじまる
1~7世紀 続縄文時代
658 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征
1216 鎌倉幕府が罪人を蝦夷が島に流す
1443 津軽安東氏が蝦夷が島に逃げる
1457 コシャマインの乱で武田信広が勝つ
この功で蛎崎氏の後継ぎとなる
1590 豊臣秀吉が蛎崎氏に蝦夷支配を認める
1604 徳川家康が蛎崎氏に蝦夷全交易を認める
1606 福山城が完成
1669 シャクシャインの乱で松前藩が勝つ
1716 このころに場所請負制度盛んになる
1807 幕府が全蝦夷地を直轄地に
1821 蝦夷地を松前藩に返還
1855 幕府が再び蝦夷地を直轄地に
1858 仙台藩などに分割警備を命じる
1868 明治維新、箱館戦争
1869 開拓使設置、蝦夷地を北海道に
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