ひがしほんがんじどうろきてん ほんがんじどうろしゅうてん
東本願寺道路起点碑 本願寺道路終点碑
げんにょしょうにんのぞう ほんがんじかいどうあと
現如上人之像 本願寺街道跡碑 |
本願寺道路(街道)って何?
本願寺道路というのは、明治時代のはじめころ、東本願寺の僧侶(お坊さん)などが中心となって作った道路のことで、そのことから「本願寺道路」と呼ばれました。このような道路は道内にいくつかありますが、その中でも特に長くて、工事が難しかったのが、ここに書かれている、尾去別(おさるべつ、伊達市長和)を起点に、洞爺湖の東側、中山峠(なかやまとうげ)を通り、平岸(ひらぎし、札幌市豊平区)を結んでいた道路です。別名として、「有珠新道(うすしんどう)」や「虻田(あぶた)越道路」などとも呼ばれますが、ここでは「本願寺道路」で統一しています。
この尾去別から平岸を結ぶルートは、現在の国道230号線の元になっており、その多くの部分が重なっています。また、江戸時代の終わりころの探検家松浦武四郎(まつうらたけしろう)が北海道探検の時に実際に通った道でもあり、この本願寺道路を作る時にもこのルートをすすめたとのことです。
本願寺道路
江戸時代が終わり、新しくできた明治政府は、ロシアの南下政策への対応策して、早急に北海道を開拓する必要がありました。そのため、開拓使という新しい役所を作り、そこで北海道の開拓を専門にあつかうようにしました。しかし、明治維新にともなう戦争などの出費で、多くのお金は使えません。開拓の中心を札幌にすることに決めはしましたが、そこまで行くための道路を整えることもできませんでした。
政府は宗教界で力のある東本願寺の手を借りることにし、これを受けて1870年2月、まだ19才の現如上人(しょうにん、お坊さんのこと)が100人以上の人を連れて京都を出発しました。着くまでのあいだに、信者からの寄付を集めながらの旅です。函館には5か月後の7月に着きました。現如上人は札幌で新しいお寺を作る一方、その他の人たちは早速道路作りを始めました。
しかし、ほとんど人が入ったことのない場所に道路を通そうというのですから、その苦労は大変なものでした。もちろん今のように、ショベルカーやダンプカーはありません。すべてが手作業です。一本一本木を切ったり、岩をどけたり、そんな作業のくり返しだったのでしょう。また、当時いたオオカミなどにおそわれることもありました。
このように自然とたたかいながらも工事は着々と進められ、1871年10月には、広さが約3メートル、全長約103キロメートルの道路によって、尾去別と平岸が結ばれました。このように1年3か月という短期間で完成したのは、1万8057両という、今の価値に直すと2億円ほどというたくさんのお金と、重複している人も含めて5万3000人という多くの人が一生懸命に働いた結果といえるでしょう。当時の道路といえば、人が歩くためだけのけもの道のようなものしかなかった時代、道幅も広く、馬も通れるという最高級の道路でした。
旧簾舞通行屋
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開通後、この道路は函館方面から札幌へ向かう人にたくさん利用されるようになり、翌年には、旅人の宿泊などのために「簾舞通行屋(みすまいつうこうや)」がつくられ、その屋守(管理人)となった黒岩清五郎が移り住みました。黒岩は屋守としてだけでなく、この地の開拓にも大きく貢献しています。しかし、1873年になって完成した室蘭から苫小牧、千歳を回って札幌への札幌本道(現在の国道36号線)が、馬車も通れるさらに立派な道路だったことから、本願寺道路はだんだんと使われなくなってしまいました。その後、簾舞通行屋は廃止になりましたが、駅逓所が新しく作られ、道路の改修も行われたりしたこともあり、まただんだんと使われるようになっています。
現在はどうなってるの?
国道230号線となった本願寺道路は、洞爺湖や函館に旅行や仕事で行き来するために利用されており、北海道内でも重要な道路の一つとなりました。観光シーズンにはかなりの車が通りますし、札幌市内では混雑が日常的なものになっています。ただ、道幅も広く舗装もされているので、当時の状況を想像するのはちょっと難しいかもしれません。「東本願寺街道起点碑」と「本願寺道路終点碑」の付近の様子も全く変わっていますし、中山峠の付近は、道路が通っている場所が当時とは違うので、実際に松浦武四郎や昔の人が通ったというわけではないようです。
では、昔のままの所はもう残っていないのかというとそうではなく、札幌市南区簾舞の「本願寺街道跡碑」がある付近では、住宅街の中に少しですが変わっていない部分があります。舗装されていない、小さな登り下りが続くこの小道は、自分で歩いてみると結構大変です。当時は道路ができたといっても、そこを通ることはそれほど楽なことでなかったということがわかります。また、近くには簾舞通行屋の建物が最初の場所と違いますが、資料館となって保存されており、内部を見学することができます。
中山峠の道の駅の近くには「本願寺街道跡碑」と「現如上人之像」が建てられていますが、少し目立たない場所なので、あまり気にしてみる人はいないようです。ただ、現在のような北海道ができるまでには、現如上人のように昔の人々が苦労してきたからだということをいつまでも忘れていはいけないでしょう。
本願寺道路
【区間】尾去別〜平岸
【歴史】1871年開通 工期1年3か月(1870.7〜1871.10)
1869 開拓使設置
東本願寺の新道切開の願出を許可
1870 現如が出発(2月)、道路工事開始(7月)
1871 本願寺道路完成(10月)
1872 黒岩清五郎が簾舞通行屋屋守に
1873 札幌本道(現国道36号線)完成 本願寺道路は荒廃
1884 簾舞通行屋廃止
1886 本願寺道路改修工事(〜1894)
1953 二級国道に指定
1958 舗装工事
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東本願寺街道起点碑
現如上人之像
本願寺街道跡碑
本願寺道路終点碑
いつでも見学できます
碑・像のみ
伊達市長和
(東本願寺道路起点碑)
喜茂別町川上(中山峠頂上)
(現如上人之像)
札幌市南区簾舞
(本願寺街道跡碑)
札幌市豊平区平岸1-18
(本願寺道路終点碑)
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札幌市について
【人口】 1,861,431人(2004年1月現在)
伊達市について
【人口】35,942人(2005年3月現在)
喜茂別町について
【人口】27,777人(2003年1月現在)
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