かいたくしさんかくそくりょうゆうふつきてん
開拓使三角測量勇払基点碑
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開拓使三角測量勇払基点碑(上)
カプセル中の石柱(下) |
基点って何?
地図を作るためにはその場所での長さや広さ、方角などを調べなくてはなりません。それを調べるのが測量(そくりょう)で、みなさんもきっと見たことがあると思います。そう、三脚(さんきゃく)の上にある小さい望遠鏡みたいなものをのぞいて何かを調べている、あの人たちがしているのが測量です。
よく使われているのは三角測量という方法ですが、これは三角関数(直角三角形のもう1つの角の角度と1辺の長さがわかれば他の2辺の長さもわかるという法則)を使ったものです。そしてその時の一番最初の基準となる点が基点です。
具体的には、測量したい地域をちょうどいい大きさの三角形で区切るため、2つの基点を定め、それを線で結びます。この線を基線と呼びますが、次にこの基線の長さをはかります。そしてそれを一辺とした三角形をつくり、線が交わる点との角度をはかります。1辺の長さと両端の2角の角度がわかれば、それぞれの点の間の長さがわかるので、あとはこれをくり返して地域の広さを調べていくわけです。
開拓使(かいたくし)三角測量勇払(ゆうふつ)基点
江戸時代の終わりころには伊能忠敬(いのうただたか)などが調べていたので、すでに北海道のほぼ正しい地形が知られていましたが、それは主に海岸部分についてのことでした。ただ、北海道の開拓にはぜひとも内陸部の正確な地図が必要でしたので開拓使は1873年にお雇(やと)い外国人のワッソンを測量長に任命し、北海道の三角測量による調査を開始しました。
まず取りかかったのは三角測量に必要な基線の設定です。最初は石狩川の上流で行う予定でしたが、適当な場所がなく、勇払(ゆうふつ)原野で行うことに変わりました。基線は勇払と鵡川(むかわ)の間に引かれ、その両はじに基点となる標石がうめられています。
次の年にワッソンが開拓使をやめることになり、その後の測量は助手であったデイが引きつづき行いました。デイは日本人助手とともに本格的な測量をすすめ、1876年に中止されるまでに北海道の面積の約5分の2をカバーするまでにいたりました。
現在はどうなってるの?
この勇払基点は、その後忘れられた存在でしたが、1962年になって高さ90cm、縦横17mの大きさで土が盛り上げられていて、その中央に基点を示す花コウ岩製の石柱がうまっているのが見つかりました。作られた当時の記録には、その上に花コウ岩製の標石やそれを保護するための台石も設置されていたようですが、それらは残っていません。また、もう一方の基点である鵡川では大規模な調査が行われたようですが、何も見つかりませんでした。
勇払基点の周辺は公園として整備され、見つかった石柱は長く保存するためにカプセルで保護されて展示されています。また、その横には歴史が書かれた案内板と、大野町で発見された標石を参考に復元したものが置かれており、日本で最初の本格的三角測量の地であることを伝えています。
開拓使三角測量勇払基点
【歴史】
1873 ワッソンが勇払と鵡川に標石を設置
1874 デイがワッソンに代わり本格的測量開始
1876 測量中止
1877 開拓使により北海道測量報文刊行
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苫小牧市について
明治維新より70年近くも前に八王子千人同心によって開拓が始められ、今では紙と港の街として発展しています。
【由来】沼の後ろにある川の意味のアイヌ語「トマークオマナイ」から。勇払は「イ・ブッ」というアイヌ語がなまったもの。
【人口】172,959人(2002年9月現在)
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