鴻之舞鉱山跡碑(後ろは慰霊碑)
その他:大山神社、鴻之舞小学校など |
鴻之舞ってどこ?
鴻之舞は、オホーツク海沿いにあり、流氷などの観光地としても有名な紋別市にあります。紋別市中心部の南側から内陸に入り、遠軽・丸瀬布に向かう道路を進んでいくと、車で30分くらいのところです。ここには、金がとれるということで街ができ、おおいににぎわっていました。
鴻之舞鉱山
もともと付近で砂金が多く発見されることから、金鉱を探し求める人もいましたが、現地調査の結果金鉱床を見つけ、地元有志が1916年に鉱区を出願したことに始まります。この大金山の発見は大手資本の注目も集め、翌年に住友が山を買い取りました。当時の金額で90万円です。早速本格的な開発に取りかかり、製錬所などを建設、また福利面にも力を入れ、医療・教育施設や日用品の販売所も設けて、従業員の生活に配慮していました。
はじめはなかなか成果があがらず、苦しかった経営も、新しい鉱床が発見されて安定期に入り、1927年の産金量は国内3位に、1933年には第2位にまでになります。そして、国の増産奨励もあって、1940年には年間金2.5トン、銀46.2トンという国内では例のない生産量を達成、生産量・規模ともに東洋一の金山として賑わいました。しかし、太平洋戦争がおこると金山整備令が出され、それによって、鴻之舞鉱山は休山、その資材も軍用に拠出されました。
戦後間もなくしてから、再開に向けての動きが起こり、1949年には製錬所の復旧工事が竣工。本格的な採鉱が始まります。それ以後、規模は年々拡大して、1955年にはこれまでの最高の2.98トンという生産量に達しました。しかし、その後一転して採鉱量は減少し始め、従業員の大幅削減などの経営合理化の努力も実らず、また1971年の集中豪雨による被害も痛手となって、1973年に閉山となってしまいました。
閉山までの総生産量は金が64.7トン、銀が965トンで、鉱山単独のものとしては日本最大のものです。
現在はどうなってるの?
鉱山のためにできた街で、交通なども不便な場所だったので、閉山とともにどんどん人がいなくなってしまいました。現在も住んでいる人はまったくいません。鉱山会社の人が、管理のためにいるだけです。
鴻之舞の街を貫いていた道路は立派な舗装道路となっていて、その沿線には学校、住宅といった当時からの建物が廃虚となって残っています。ただ、危険防止のためか撤去もすすめられているようです。
[その他]
鴻之舞鉱山
【歴史】1916〜1973年
1916 鴻之舞鉱山誕生
1917 住友が買収
1918 製錬所完成、医療・教育施設開設
1940 産金量国内第1位に
1943 金山整備令によって休山
1949 再開
1955 史上最高の産金量を記録
1973 閉山
【総生産量】金64.7トン
【最高生産量】金2.98トン(1955年)
【従業員数】4,600人(1942年)
【人口】13,000人(1942年)
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紋別市について
流氷の町として知られ、砕氷船ガリンコ号が人気を呼んでいます。
【由来】静かな川を意味するアイヌ語「モウペット」から
【人口】28,476人(2001年1月現在)
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参考 |
紋別市史
新紋別市史
産業遺跡の旅(掘淳一著) |
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