開拓使本庁舎跡碑と旧北海道庁舎碑 |
蝦夷地から北海道へ
明治維新によって、近代化への一歩を踏み出しましたが、北海道も例外ではありません。翌年の1869年には本格的に開発するため、開拓使が作られ、今までの「蝦夷地」という呼び名を改めて「北海道」とすることに決めました。これはロシアとの国境をめぐる争いがあったこともあります。
開拓には10年間で当時のお金で1000万円という大金を使い、ヨーロッパやアメリカの進んだ技術を使って行われ、それらの国と同等の力をつけることを目標にしていました。
開拓の中心地となったのは札幌で、現在道庁赤レンガ(旧北海道庁舎)がある横に開拓使庁舎が建てられました。中心部の道路はそこを基準に作られています。また、それだけでなく、産業を発展させるためにビール工場(現在のサッポロファクトリー)や炭鉱、鉄道なども設けました。札幌農学校(現在の北海道大学)もその時に作られ、さっぽろ時計台がその時の建物として残っています。
開拓の進展と屯田兵
ただ、開拓にはやはり人の手が必要です。本州の農民を北海道に移住させようとしましたが、未開拓の知らない土地に行きたがる人が多くいるはずがありません。そんな中で、職を失った武士たちは、もとの領主とともにまとまって、または1873年にできた屯田兵制度(→詳しい説明)によって、新天地を求めて北海道に渡ってきました。
札幌市でも琴似や山鼻、旭川市なら永山、その他道内各地に屯田兵村が作られ、そこを拠点に開拓を行いました。しかし、原生林がうっそうと茂っているような土地です。しかも、本州とは違い冬は厳しい気候で、与えられた兵屋(住居)などは決して恵まれたものではありません。1904年に制度が廃止になるまでに全部で37か所に村が作られましたが、その苦労は大変なものでした。
また、集団移住は地域ごとにまとまってされ、その多くは新しく住みついた土地に出身地の地名をつけていました。札幌では白石(宮城県)などが現在でも残っています。
その一方で、それまで住んでいたアイヌの人に対しては、狩りや漁の場であった土地を取り上げ、日本語や日本名を押しつけるなど、無理矢理日本の文化を受け入れさせていました。
その後の開拓
1886年、それまでの開拓使を廃止して、北海道庁が作られます。
それとほぼ同時にそれまで開拓使が行ってきたビールや缶詰、鉄道などの事業は民間に移されました。これらの内、ビールは現在のサッポロビールに、鉄道は国鉄を経てJR北海道の路線の一部となるなど、発展をとげたものもあります。道路も徐々に整備されましたが、道路、鉄道の土木工事には多くの囚人やタコと呼ばれた労働者がかかわっています。危険な場所で働かせられ、満足いく待遇も受けられませんでした。働けなくなった人は、放置されたり殺されたりしたといいます。
また、このころになると、入植する人も増えてきて、北海道の北部や東部へ開拓地は広がっていきました。品種や道具も改良され、農業は順調に発展していきます。漁業ではニシン漁が最盛期を迎えました。その他、炭鉱などの鉱山も多く開かれ、製紙や製鉄といった工場も作られていきました。
1918年には北海道の開拓が始まって50年目を記念して北海道大博覧会が開かれ、より発展していきます。北海道もすでに本州並みと思われましたが、その後全国的な不況に加え、水害や冷害が相次ぎ、こういったことが日本を中国に対する戦争へと向かわせました。
開拓のはじまりと発展
1868 明治維新
1869 開拓使設置、蝦夷地が北海道に
場所請負制度、運上家廃止
1873 屯田兵制度開始
1886 開拓使廃止、北海道庁設置
1904 屯田兵制度廃止
1918 北海道大博覧会開催
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