屯田兵って兵隊さんとはちがうの?
屯田兵と屯田兵村


琴似屯田兵村兵屋

屯田兵(とんでんへい)って何?
 屯田兵の制度は、北海道の開拓(かいたく)と警備を目的として作られました。当時開拓使の次官であった黒田清隆(くろだきよたか)の願い出がきっかけで、1873年に屯田兵条例が成立しました。具体的には、開拓を早急に行うことはもとより、外国に対する警備、仕事を失った武士に対する新しい仕事、開発費用の軽減といった多くの目的があったようです。そして、屯田兵の住居などが作られた一帯を屯田兵村と呼びます。
 屯田兵の日課は、ふつうの兵隊とは違い、屯田兵村内や近郊での開墾、農作業などと訓練をはじめとする軍務で、規律は厳しく、その生活は大変なものであったようです。

広がる屯田兵村
  まず最初にできたのが札幌の琴似屯田兵村で、施設は屯田兵条例が成立した翌年の1874年には完成し、入植は1875年。全部で208戸の兵屋が立ち並び、1戸あたりの土地の広さは150坪(約460平方メートル)でしたが、建物は簡素で、低予算のためストーブすらありませんでした。
 つぎの年には山鼻(やまはな:札幌市中央区の一部)、そのあとに江別太(江別市)、新琴似(札幌市北区)、屯田(札幌市北区)、輪西(室蘭市)など屯田兵制度がなくなるまでに全道で37兵村がつくられました。兵屋の建て方は、琴似兵村と変わりはありませんが、江別太と篠津(しのつ)に作られたものだけはストーブとガラス窓がついていたそうです。
 また当初は士族
を中心に募集・採用されていましたが、1890年の改正以降は平民からも募集しています。そのためそれ以前を士族屯田、以後を平民屯田と呼び区別しています。旭川や当麻におかれた屯田兵はちょうど変わったころのものです。そしてそれはより内陸の開拓が本格的に開始されたということでもありました。
 しかし、開拓がしだいに進み、また北海道に徴兵令が施行され、正式な軍隊が増強されてくると、屯田兵の存在価値が低下していきます。そのため、屯田兵もしだいに正規軍に近い組織になっていき、屯田兵制度は終了しました。

屯田兵村と現在の街
 屯田兵の制度は1904年の条例廃止まで続けられ、その間で兵村は37、約4万人の人が北海道の開拓に取り組みました。現在の街からもその功績を知ることができます。例えば札幌市西区琴似の道路区画ははまさしく兵村のものであり、同じく中央区の山鼻屯田兵村のあった場所には、東屯田通り、西屯田通りという名前が残っています。また、永山屯田兵村がおかれた旭川市永山は屯田兵の育ての親である永山武四郎の名からつけられたものです。他には記念碑や建物を保存・復元しているところもあり、当時のことを知る上で大変貴重な存在です。
 下にそれらの主なものをあげておきます。

主な屯田兵村の遺構
琴似屯田兵村兵屋 札幌市 国史
新琴似屯田兵中隊本部 札幌市  
第三大隊本部火薬庫 江別市 道文
野幌屯田兵第二中隊本部 江別市 道文
屯田兵第三大隊本部跡 旭川市  
旧旭川村屯田兵村 旭川市  
美唄屯田兵屋・火薬庫 美唄市 道文
輪西屯田中隊本部跡 室蘭市  
太田屯田兵村旧松本家住宅 厚岸町 道文
和田屯田兵村被服庫 根室市 道文
野付牛屯田兵屋 北見市  
     
※国史=国指定史跡 道文=道指定文化財 
屯田兵制度

 1869 開拓使設置、蝦夷地が北海道に
 1873 屯田兵条例成立
 1874 琴似屯田兵村完成
 1875 琴似屯田兵村へ移住開始
 1890 条例改正で平民も募集
 1904 屯田兵条例廃止  

琴似屯田兵村復元兵屋
(国指定史跡)
はじめて作られた屯田兵村
復元した兵屋、内部に資料
札幌市西区琴似2-5

参考 北海道の歴史
関連 北海道

 

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